まつろはぬ人びとの精神(こころ) 

〜全生研岩手大会・イメージ「小○(困る)」について〜

 

 

ペリー提督の黒船に人の注意が奪われている時期に東北の一隅で、もしかすると黒船以上に大きな事件が起こっていた

――大佛 次郎

■はじめに
わたしたち岩生研では、今大会(2006)をどのように位置づけ、イメージしていくのかという討議を学習会、各諸会議を通して積み重ねてきた。そして、これまで岩生研の基調提案でふれてきた「地域に根ざす教育」において、わたしたちをとりまく地域の歴史的な背景をふりかえり、未来へとつなぐものにしていきたいという思いをこの大会に込めていきたいと考えた。

岩手大会において、地元・大会実行委員がイメージしたもの、それは南部藩制下で百姓たちがたちあがった民たちが手にした「小○」であった。

現在の教育をとりまく状況の中で、どのように明日を、未来を語りつないでいくのか。そのヒントを探るべく、わたしたち岩生研では三閉伊一揆について学ぶ機会を得た。

*尚、本資料は牛山靖夫氏の編集した『三閉伊一揆手引草』(2003)より抜粋(まえがき/あとがき)している。

 詳しくは、大会・現地の夕べ(7月29日)での【南部三閉伊一揆を語る夕べ】にご参加 ください。


■三閉伊一揆とは

古来、陸奥(みちのく)は道の奥であり、万葉仮名では「みち」に「美知」の二文字をあてていた。閉伊とは「美しい知」のさらに奥、閉ざされた「未知」の世界をさしていた。北上山地からリアスの東海岸にいたる広大な地域が閉伊地方である。

三閉伊(さんへい)一揆は、この閉伊地方を中心に、いまから150年前、ペリーの黒船が来航した同じ年の嘉永6年(1853)と弘化4年(1847)の2度にわたってたたかわれた壮大な一揆である。

この一揆は、「ペリー提督の黒船に人の注意が奪われている時期に東北の一隅で、もしかすると黒船以上に大きな事件が起こっていた 」(大佛次郎『天皇の世紀』)といわれるように、政治性(要求・戦術)、組織性(規模・結束)、思想性(人間性)の高さから、江戸幕藩体制史上もっとも傑出した一揆の一つであり、近世における百姓一揆の到達点の一つであった。

弘化の一揆では、旧暦の11月に安家村を出立し、一万二千人が参加して、遠野の早瀬川原で南部弥六郎に訴えた。

嘉永の一揆では、5月に田野畑村を出立し、一万六千人が参加して、藩境をこえ仙台藩に訴えた。

盛岡にいる南部藩主にではなく、南部藩の筆頭家老で遠野藩主の弥六郎と、隣の藩の仙台藩主に要求書を提出したのである。それでも埒が明かなければ江戸表=幕府に訴え出ようという一揆であった。

閉伊地方は米が稔らず、稗・栗・大豆・小豆に大根をもって五穀とする地域であった。しかし、近世になると、天の恵みをいかして、海産業と鉄産業の二つを柱に新興産業が成長し、白米の常食が可能になっていた。そこへ南部藩はつぎつぎに重税をかけ、収奪をつよめていった。ついに百姓の怒りは爆発し、一揆に立ち上がった。

当時、南部藩の人口はおよそ35万人。閉伊地方は6万人であった。弘化の一揆には人口の約20%、嘉永の一揆には約27%が参加している。

製鉄・製塩・製炭・漁業ではたらく人びと、荷駄をはこぶ牛方たち、村方・浦方・町方の「諸業の民」が心を一つに結んだ大闘争であった。一揆には老人、女性も子どもも参加した。また全領各地で呼応した一揆がたたかわれている。

嘉永の一揆では、先頭に「小○(困る)」の旗を押立て、貝を吹き、ときの声をあげ、「千福叺」を背負い、赤白のタスキ姿の若者にかこまれて押寄せた。藩主の交替を求める大綱「三ヶ条」と、たびかさなる御用金・新税・重税は迷惑などの「四十九ヶ条」を要求し、代表の四十五人衆が5ヶ月におよぶ交渉をねばりぬき、ほぼ全面的に要求を実現して勝利した。

そのうえ、ほかには例のない、参加者を一人も処罰しないと約束させた御墨付=安堵状までかちとった。安堵状はいまも四重の桐の箱に納められ、子孫の手で大切に保管されている。

■まつろはぬ人びとの精神(こころ)

岩手には、豊かな自然をはじめ、素晴らしいところがたくさんある。まつろはぬ人びとの歴史もその一つである。まつろはぬとは、服従しないという意味であるが、古の蝦夷の人びとも、幕末の一揆の人びともそうであった。社会に目を向けた石川啄木や宮沢賢治も同じ歴史の流れのなかにいた。

三閉伊一揆の精神とは、まつろはぬ人びとの精神であり、民衆の幸せを願う精神であろう。

一揆の頭人・万六は「強訴・徒党・逃散」は「磔・打首・獄門」の時代に、南部藩は政治が荒く、万人を苦しめているとして、「百姓は天下の民」であることを説いた。三閉伊通の人びとは百姓の暮らしが成り立つようにと、心を一つに結んでたちあがり、二度の一揆を成功させて願いを実現した。

高村光太郎は「岩手の人沈深牛のごとし/…地を往きて走らず/企てて草奔ならず/ついにその成すべきを成す/…この山間にありて作らんかな/…未見の運命を担う牛の如き魂の造形を」とうたっている。これこそ閉伊の山間に「小○の旗」を押し立てた一揆の人びとである。

石川啄木は大逆事件の後、評論「時代閉塞の現状」を執筆し、明治45年正月の日記には「国民が団結すれば勝つといふ事、多数は力なりといふ事を知ってくるのは、オオルド・ニッポンの眼からは無論危険極まる事と見えるに違いない」と書いた。「新しき明日の来るのを信ずといふ/自分の言葉に/嘘はなけれど…」と歌によんだ。

宮沢賢治は童話『銀河鉄道の夜』のなかで「ぼくたちここで天上よりもっといいとこ、こさえなくちゃいけない」と主人公の少年に語らせ、「諸君はこの時代に強いられ率いられて/奴隷のやうに忍従することを欲するか/むしろ諸君よ 更にあらたな正しい時代をつくれ……/諸君はこの颯爽たる/諸君の未来圏から吹いてくる/透明な清潔な風を感じないのか」と問いかける詩を書いた。

三閉伊一揆の精神に学ぶとは、まつろはぬ人びとの歴史を引き継ぎ、「新しき明日」「あらたな正しい時代」に向かって前進することではないだろうか。

 

2006全生研岩手大会特設サイト・トップページへ

 

 

inserted by FC2 system